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観音経レポートメルマガを半年ぶりに発行した。ネタは観音さま。 あまり長い文章を送りつけても、読む方は迷惑だったりするので、なるべく簡略化・・・と思いつつも、ものがものだけに、ちょっと長くなってしまった。 長い文章が嫌な人は、パスしてね。 一応、転載しておきます。 ********************************** 霊性の人々100の智恵 〜 Artist of life 〜 2007.3.13 21号 ********************************** 「観音さま」 この名前が、最近よくぼくの耳に入ってくる。観音さま、観音さま・・・ 観音さまって誰なの? どんな存在なの? とぼくは疑問を持つ。 いろいろな人に尋ねてみた。観音さまって? 数人の友人に聞いたが、けっきょくぼくの腑に落ちる説明をしてくれた人はいなかった。 そうしたある日、一人の友人が『マンガで読む観音経』桑田二郎著(全4巻)を貸してくれた。サブタイトルには「生命の真理が見える」とある。マンガとはいえ、内容が内容だけに、さらりと流し読みはできそうにない。合間をみながら、ようやく先日読み終えたところだ。(因みに、桑田さんは月光仮面とかエイトマンの作者です) で、結論から言うと・・・。結論を明かしてしまうとおもしろくもおかしくもない。最後に結論を持ってくるのが文章の筋というものだが、情報が氾濫する中で、くどくどと書きつづっても、読む方も迷惑する。だから、結論から言うことにする。 観音様とは・・・ この本の中で一番分かりやすかった表現は、 「如来(仏)を太陽にたとえると、 観音は太陽光線」 要は太陽はそこにある存在で、太陽光線はぼくたちに直接働きかけてくるもの。太陽光線はぼくたちの環境に直接関わってくるもの。太陽光線によって生命は育まれ、多くの恩恵を受けているわけだ。 そこにはいろいろな働きがある。その働きによって「千手観音」とか「十一面観音」とか「馬頭観音」とか、いろいろな姿になって現れるわけだが、ぼくたちが思っているような人格的なものではない。だって太陽光線にカタチがないように、観音ボサツにも姿カタチがあるわけではない。そこに「在る存在」なのだ。 よく観音さまの姿を見たとか、声を聞いたとか、そんなことをいう人がいるが、太陽光線には姿がないし、しゃべったりなんかしない。ただ、太陽光線がそこに映し出す姿によって、いろいろなカタチになることはある。それを観音さまの本体だと思ってしまうと、とんでもなく狭いとらえ方になる。声なき声、姿なき姿、それが観音なのだ。 とまあ、分かったか分からなかったかよく分からないが???この説明は、今までいろんな人に聞いた説明の中では、一番分かりやすい表現だった。 これで、一応、「観音さま」の存在をおおまかにイメージすることができた。誰かに「観音さま」ってどんな存在なの?と聞かれれば、「太陽光線」のようなものだと、抽象的だが説明できる。 これで今回のネタは終わり。だが、少しだけ「おまけ」をつけておきたいと思う。この『マンガで読む観音経』の中に表現されているこの世とあの世のしくみ。その法則を知っているのと知らないのとでは、生き方が違ってくる。読者のみなさんはすでに知っていることばかりだと思うが、ぼくも復習のつもりで、ぼくの主観も含め、ぼくの言葉でできるだけ簡単に表現してみたいと思う。 ————————————————————————————— 1.人間はもともと空なるもの 2,その空なる心に入り込むいろいろな次元の想念 3,カルマの法則 4,私たちが向かう進化と観音ボサツの働き ————————————————————————————— さて、まず1から始めたいと思う。(なるべく長くならないように心がけます) 1.人間はもともと空なるもの 「空」なんていうと、何かとんでもなく深い意味があるようだが、ここでは、ただ「空っぽ」ということにしておきたい。人間の心にはいろいろな思いがすでに在るように思うが、もともとは空っぽなんだ、ということ。 その空っぽの心という器の中に、何を入れるか、それによっていろいろな現象が生まれてくる。取り入れるって?何を取り入れるのか?それは言葉だったり行為だったりするわけだが、そのことは後に詳しく?(簡単に?)説明をしたい。 それが運命だとか宿命だとか、そういうカタチをもって現れるわけだが、そのカタチを生みだした原因はどこにあるのか、というと、やはりもとは自分がどんなものを心に取り込んだか、というところに原因があるわけだ。 2,その空なる心に入り込むいろいろな次元の想念 その「空」なるところに、何を取り込むか。その取り込んだものによって、心が動かされるわけだが、取り込むものを大きく2つに分けたとすると、これもとても大ざっぱな分け方だが、まあよしとして、 ・1つは、「進化の想念」= 良い心 ・もう1つは、「脱線の想念」=いやな心 どちらを取り込むかによって、どんな現象が未来に起こるかが決まってくるのだ。 ここでもう一つ、知っておきたいこの世とあの世のしくみがある。 この世界を大きく2つに分けるとしたら、 ・見える世界(色・肉体)と、 ・見えない世界(空・霊)がある。 この見えない世界には、肉体を持っていたときに果たせなかった想念をもった諸々の霊、悪霊などと呼ばれることもあるが、そういうものがたしかにある。これは霊の進化の道からはずれて悪あがきしている生命。そういうものは、肉体を持つことができないために、死んでも執念だけは霊の生命の波動として空の次元に存在し続ける。 霊の世界において人の魂をえじきにしようと狙っているという表現もできる。これはちょっと生々しくて、表現が気持ちよくないが、ウイルスや細菌が身体をむしばむようなものだ。精神の力が弱いと、そういう霊の想念にあわせて行動してしまうようになってしまうのだ。とまあ、そういう見えない世界もあるってことだ。 3,カルマの法則 さて、そこで、取り込んだものがどんな具合で現れてくるのか、それを「カルマ」と表現することができる。カルマとは、心に何かを思い、行動するとき、それは何らかの結果となって自分に返ってくるというもの。原因と結果をつなぐ「因果の法則」、それが「カルマ」だ。 この原因と結果というものは、すぐに現れるものもある。腐った物を食べたら数時間後に食あたりをする、これもカルマだ。だが、悪いことをした、と思っても、なんてことなかった、ということもある。これはうまく逃れたように思うが、何年、何十年も経ってから結果が出ることもある。 結局、今の自分の姿というのは、過去の原因がつくり出した結果だということ。 今の自分を見れば、過去に自分がどんな思いを取り込み、どんな行動をとったか、それがはっきり現象として現れていることがわかる。 ならば未来はどうか、それは今自分がどんな思いを持ち、どんな行動をしているか、その原因によって、はっきり、誤魔化しなく、未来は決定しているわけだ。 過去、現在、未来、というものを、ぼくたちの一生というモノサシで計ることもできるが、もっと大きな視点でいくと、過去生、現世、来世という見方もできる。これはカルマの法則の中で展開される「輪廻転生」ともいわれている。 カルマの法則というものは厳粛なもので、悪いカルマから生まれた現象は、ますます悪い想念を生み出し、その想念をどんどんと心に取り入れるために、それは恐ろしく増幅していく。逆に、良いカルマから生まれた現象は、ますます良い想念を生み出し、その想念をどんどん心に取り入れるために、すばらしく増幅していくわけだ。 良い想念はいいとして、この悪い想念はどこかで断ち切らなければならない。たいてい肉体を持ってこの世に生まれてきた人間は、カルマの法則によって存在しているわけだ。たいていは悪循環に悪循環を重ね、大きな借金を抱えている人間がほとんど。いくらいい原因を作っても、利息すら払えてない。 なんとか、この悪循環から抜け出さなければならないわけだが、ここで重要なのが、この「カルマの法則」をよく知っておくことだ。 ★ここポイント!★ それは、本人の生命の中から生まれた現象を生み出すエネルギー、それは良きにつけ、悪しきにつけ、現象となって現れるとともに、「そのエネルギーは消えていく」ということだ。 そうしたカルマの法則を知らないと、悪いカルマが消えてゆくときの不幸や苦悩の中で悪あがきをして、想ったり、愚痴ったり、悲しんだり、嫌な心を働かせてしまう。そして、嫌な心で行動するとき、そこに新たな悪いカルマのエネルギーをつくり出してしまう。そうなると、悪いカルマは延々と悪循環を繰り返すことになるのだ。 4,私たちが向かう進化と観音ボサツの働き ならば、カルマとは天罪なのか? 免れることはできないのか? という疑問が湧いてくる。自業自得だと言われればしかたがない。でも、一度はまった悪循環から逃れるのは、並大抵のことではない。 ★ここポイント!★ だが、ここは安心しておきたい。それは「すべての霊の進化のためにカルマは働いている」からだ。 ・進化の方向に向かっている → 喜ばしい生命現象 ・進化の脱線が起こっている → 苦という生命現象(生命のあり方の間違いを知らせる天からのさとし) このどちらもすべてが霊の進化のための働きなのだ。 さてさて、ここで観音さまの登場だ。こうした、どうしようもない悪循環の中でもがき苦しむ人間たちを、なんとか無事に進化の方向に向かせようと働きかけている存在、それが観音さまなのだ。 進化の方向に向かうためには、「魂の目」を開くことが大大大先決なのだ。魂の目が開くと、観音ボサツの霊力が人生の生命の中に「理智」となって現れてくる。心の雲が晴れて、太陽光線がサンサンと差し込み出すというわけだ。そうなればしめたもの、人間の魂とそれをとりまく霊とのかかわりあいの意味を理解することができるようになる。 ★ここポイント!★ 要は、「魂の目」を開くかどうか、にかかっている。人間が未来にむけて幸福を実現できるか、あるいは地獄を現実のものにしてしまうかは、この世において「魂の目」を開けるか、閉ざしたままでいるかにかかっているのだ。そのために観音ボサツは全力で、人間を救い、導いているわけだ。南無〜 ここまで分かってくると、どうすれば進化の方向に向かうことができるのか、という方法論に入ることができる。 最近よく「ありがとうを唱えるといい」とか「ツキを呼ぶ魔法の言葉」とか、そういう「ありがとうブーム」のようなものがあるが、よく分からずに現世利益のようにとらえている人も多い。でも、このカルマの法則というものを知って、この魔法の言葉を使うと、現世どころか、過去、未来にいたるまで、すべてを進化に向かわせる、驚きの働きがあることに気づくことができる。 「すべてのカルマは、言葉と行為によってつくられる!」 この法則を活用して、「ありがとう」とか、そういう言葉を使いこなすことによって、進化の方向に向かわせることができるのは、理屈じゃなく、法則に合っているのだ。ウソでもなんでもいい、こういう言葉を使うことによって、どんどん進化に向かっている。 そして最後の結論。それはたった一言、「感謝」。 ★ここポイント!★ 「感謝の念」を持てるようになったとき、その人は、過去のカルマのすべてから、次々と開放されてゆき、霊(いのち)はたしかな進化へと進みはじめる。 魂の目を開かせ、進化へと導くのが、観音ボサツの悲願なのだ。 とまあ、そんな感じで、もっと詳しく知りたい人は、 『マンガで読む観音経』桑田二郎著(全4巻)(廣済堂文庫) を読んでいただきたい。 おわり ☆霊性の法則 その21‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 感謝の念を持てるようになったとき、その人は、過去のカルマのすべてから、 次々と開放されてゆき、霊(いのち)はたしかな進化へと進みはじめる ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ #
by kibi_kozukai
| 2007-03-13 14:41
| 気づき
うさとの服展 in 岡山・川辺の家
春の陽気とともに、うさとの服展を開催させいていただくことになりました。お近くの方、ぜひお越しください。
詳しくはホームページで。 うさとの服展 in 川辺の家 http://www.kojobunko.net/usato-ten/index.html #
by kibi_kozukai
| 2007-03-11 23:40
| ご案内
物を育てるということ自然農4年目、新しいサイクルの始まりだ。今日は苗床づくりに行ってきた。4回目にもなると少しは段取りが分かってきたが、まだまだ自然農の先輩たちに任せっきりのところがある。 やはり、命の不思議を体験するには、もの作りをしてみるのが一番だと思う。バーチャルな世界オンリーで過ごすと、段々と生命力が萎えてくるように思う。たかが人間が考え出した世界など知れている。と言っても、中にはびっくりするような、人間の考えたものもあるので、まったく否定するわけではないが。 ただ、ぼくたちは自然のサイクルの中で生きている、その法則からはずれることは絶対にできない。この法則を知ってしまえば、なんだそんなことだったのか、ということになるのだが、知らないで生きていると目隠しして闇を歩いているように心許ないまま人生を終わってしまうことになる。知りたい!と思わないと、その答えはやってこない。知りたい!と思う程度によって、その答えはやってくる。 その法則を知ってくると、そこに理智というものを働かせて本当の人間として生きる機会を与えられる。本当の人間として生きるということは、進化することだと思う。 ぼくはその法則を知るには、本を読むことや話を聞くことも大事だと思うが、物を育てるということを体験するのが一番近道ではないかと、いろいろな体験してきた結論として思うのである。なんで一粒の種が、たくさんの実をつけるのか、なんで小さな命が大きく育つのか、そこには理屈なく、体感できる法則がある。 #
by kibi_kozukai
| 2007-03-10 18:17
| 雑記
『マンガで読む観音経』全4巻を読了昨夕の夕暮れは、不思議な空だった。飛行機雲にしては異様な流れ方をしているし、キャンバスに薄墨でさらりと描いたような芸術的な瞬間だった。やはり、創造主は最高のアーティストだと思う。 一昨日、ようやく『マンガで読む観音経』全4巻を読了。20年来探求してきたこの世の見える世界のこと、見えない世界のこと、そこに潜む法則性、因果関係など、そのおさらいのような感じで読ませてもらった。 それにしても、観音経にはすでにそういう、今でいうところの精神世界のことが、全部書かれていたということを知って、ちょっと目からうろこが落ちた感じがした。自分の言葉で感想文を書き残しておきたいと思っているのだが、さて、どこから手をつけていいものか。メモをとりながら、ざざっと瞬間的にまとめて、そのうちメルマガにでもながそうと思っている。 メルマガといえば、この間、今月中に発行しない場合は廃刊になります、という警告メールがまぐまぐから届いた。もう半年もほったらかしにしたままだ。このメルマガは8年前から始めたもので、最初の3年くらいは毎週1回、ぼくが思っていること、読んだ本のこと、最新情報、精神世界のことなどをマメに発行していたのだが、けっこう好評で一時は2500名くらいの読者がいた。今も1600名くらい残っている。 書くことによって、一番得をしたのは自分だったと思う。ずいぶんと心の整理ができたし、文章に残すということは自分の足跡を確認することができる。そのおまけとして、読者へ言葉のお裾分け、という感じだ。 それにしても、その頃はネタを探すために週に2〜3冊の本はいつも読んでいた。それも要点だけ拾って読み進める集中力はすごいものがあったと思う。難解な本でも、ざざっといっきに読んでまとめ上げる。まとめる、という目標がはっきりしていると、読み方も違ってくる。 さて、今週末はだらだらと喫茶店でコーヒーでも飲みながら、観音経レポートをまとめてみようと思う。まとまらなかったら、まあ、いいか・・・。と、こんなことだから廃刊メールをもらうはめになるのだが・・・。 #
by kibi_kozukai
| 2007-03-09 09:17
| 雑記
今朝の鳴滝湖最近はなんとなく天気予報を気にすることが多くなった。昨夕の天気予報で、明日の岡山は霜注意報・・・という言葉にぴぴ〜ん。写真を撮ろうと思うと、非日常的な条件の中にある風景、それはこちらから出向かなければ出会えないものだということが、最近わかってきた。 ここ数ヶ月、朝の散歩を日課にしてから、霜の降り具合と気温、太陽、風、空気など、いろいろなものに法則のようなものがあることに気づいてきた。もし霜が降りた風景を撮るには、早朝しかない。少し太陽が高くなると、霜はいっぺんに溶けてしまう。 ぼくは寝る前に、明日はどこかの湖に行こう!と決めて、ネットで検索。車で4〜50分のところに鳴滝湖というのがあることがわかった。 今朝起きて、産土神社に詣でてから、車を走らせた。思った通り朝の素敵な風景に出会えた。しばし自然にひたって、先ほど帰宅。 早起きすると、ちょっと得した気分になる。 #
by kibi_kozukai
| 2007-03-08 10:57
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